この間、ソニービルの一番上のレストランに行ったんだけど、数寄屋橋阪急が建て替えだかでないので、見晴らしがよかった。混んでたんだけど、昼間なので一緒にご飯食べてた人の顔に何かふわふわした金色の糸か何かがくっついてるのが見えてずっと気になっていたんだけど、そういう繊維じゃなくて、ひげみたいのが一本、10cmぐらいのが生えていたんだった。そこまで伸びるのに気づいていないのも面白かったんだけど、前も見たことある気がするし、小さいときから変なところに毛が生えてるのでそういう体質の人らしい。本人曰く、そういうのが出てくるときは折々にいいことがあるそうだ。わたしも発見したのでいいことがあるとか言ってたけど、バカな森にいるとしわ寄せが来た時もある。誰かがついてるとジンクスを述べる時、大抵私の方には何もないのだ。それでもこういうジンクスを語る人物の方が、まだ信用がおけるほうだ。
さて、指をおくの本が奇妙なのは、たぶん期間がすごく長いもので、特に5の場合においては一概に本人の考え方にかかわらず、批判や恨みを買う場合があるようだ。朝日自体に向かう場合もここのところのしつこさを見ればよくお判りいただけるんだろう。
佐藤雅彦の研究でよく出てくるのは、普段どれだけ視覚情報に頼っているかというのがあるのだけれども、昔は本人だけが異常に計測していたので周りがついていけないというのが多々あったんだろうと思う。
先の本で5分類に多かったように、視覚で裏切られる場合、ほかの感覚に頼るのが普通なのだろう。その場合にずっとこのチャンネルにいると、それが妙な癖として習慣化されていることも多いらしい。そこから不潔なものとか、野生的というのが不思議な感じで残っていて(鵺もこの辺の関連もありそう)、先日高崎卓馬さんの本を読んでいた時も可哀想だなこの人、それに振り回されててと思ったんだった。
母と私にはそれはない。母は切り捨て型で、わたしはボーとしているとか他の考え事をする。それでも、そもそも何日か前に書いた混乱は母が祖母を急に失くした時のが残っている気もする。あの時と同時期に母は自律神経失調症になっていたはずだ。このような様子の変化が朝日批判の元の一つでもある。それでも元のところでは女性に対して考えているところはあるはずなんだけど。
もう一つ、糸井さんが何日か前に、問いかけや問い詰めは時として軽い命令であるという趣旨のことを書かれていたのだけれども、何も知らないとか忘れやすい人はそうじゃないけど、そうでない場合に新聞や広告ではよくあるのだろう。
ちょっと勇み足でいうと、解決に向けて答が出されてるとして読まされてるときや、結果的に解決を考えさせられているとき、えてして、その問いが前提としてるイデオロギーの呪縛の作用であったりする。
— finalvent (@finalvent) 2014, 10月 4
どちらもまた真なり、という状況は結構多いんだけど、最終的にどっちが強度があるのかってことは、言葉じゃなくて行動とかoutputが決めるんだろうなということを実感する今日この頃です。
— 津田大介 (@tsuda) 2014, 10月 5
四方から不安をあおりすぎるのはたまによくないんですよね。