今日従妹が秋らしい服装なのにそのイメージにそぐわない言葉のTシャツを着ていて、何でか聞いてみたら字の流れ方のデザインで選んだのだということだった。
ややその子の定位からいうとななめになるのか斜め方向にバイヤスがかかっていた。
不思議なロゴや言葉のTシャツがすっかり定着してしまっていて、80年代の独特のから直すにしても中学生ぐらいの時は時期が悪かったんだと思う。それがずっとその要因も含めて長年出続けている。
たびたび時期によっては三はん神経がおかしくなるとか自律神経がおかしくなる人が出る。わたしもいつもふらふらしているとはよく言われていた。人格を割りすぎるとか、ある程度のメタ認知も忠告も(本当に何も言われないところで育ってきて自意識がおかしい人とは違うので)それなりに聞くことはできるのだろうけど、あまりにも些末なことについて評価しすぎるとかそういうのでもおかしくなる時はある。「自己概念」と「鏡映的自己」の話。また、空間定位感覚のおかしい人をあげすぎると他の人にも悪影響が出る場合もある。
今日読売新聞に池谷裕二先生がこの本をあげられていた。
いわゆる鏡文字だ。
頭の中で書き順もイメージしながら想像するより、実際書くときには少し迷うが、それでもわたしは普段左右を逆に画像認識することはなかったはずだ。
これがほかの子には、ディスクレシア認定されるほど悪影響が強く出ていたり、自由度が高い人の方が便利だからと出回りすぎていると、その影響が文字にまで出るとか。それにしても自意識がおかしい世相の時にこの問題は出やすいような気はする。
アイデンティティの形成の仕方、この本を見ると
永井一正のポスター (1976年) (アート・テクニック・ナウ〈17〉)
永井先生の自己概念と作品の間での葛藤が正直に書かれているのだけれども、それを見ると私が東芝系で習っていたことなのだけれども。
いつの頃からか、偽物なのか、その代役にしても、それ以前の古い他人のものを不完全な形で大量に出している人がいて、何事も酷いのだろうと思った。
昨日この照明のが実物はたぶん六本木でおなじだし大昔に起きた事故のことも考えてつくられているはずだ。
いろいろと考えると、朝永先生の研究にまつわる部分で誤解がやたらと多い。在籍していたり関係していたのか、理研や東芝もおかしくなったし。今書いたように、同じ場所で起こりうる出来事というのは場の量子論のことだし、鏡の中の物理学 (講談社学術文庫)こういった本も書かれている。
この一帯がほとんど誰か違う人にすり替えているのではないかな?
日経には、この朝永先生が科学を好きになるきっかけ
の原理を理由にわたしはしつこく人格否定の画像転送を行われたことはある。