atashi9's weblog

10だってあるよ 

金沢バカとおはじきの誤解

 

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また読むべき頃なのかってかんじでね。

読んだの。とりあえずフラニーの方は。眠くてね。

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

村上はこれで書いたりしてる。 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

 確か金沢に行くんだよね。雪がすごくて帰れなそうになってた。

 

大阪方面と納豆でおかしかったんじゃないかな。

 

未だにおかしいのね。

先に上げた新潮社のサイトの、この部分しっかりよむことがたいせつ。

 さて、この小説の「宗教臭さ」については正直なところ、今読み返してみてもいかんともしがたいところがある。作者自身が当時、宗教(東洋哲学)に深くはまっていて、それを実践する形で半ば隠遁的な生活を送っており、何を書いてもすべて宗教性に向かってしまうという状態にあった。彼自身「今の私は、もし盗まれたスニーカーについて物語を書いたとしても、結局はお説教に行き着くことだろう」というようなことを述べている。そのような「宗教臭さ」はところどころでいくぶん図式的に流れもするし、それは一般的読者を少なからず辟易させることになるかもしれない(かつての僕がそう感じたのと同じように)。そのことは本書のひとつの弱点になっているかもしれない。
 ただひとつご理解いただきたいのは、一九五〇年代のアメリカにおいては、東洋哲学や原始キリスト教の教義は、おそらく現在よりもずっと切迫した、リアルな存在性を持っていたという事実だ。ビート・ジェネレーションへと繋がっていくひとつの思想的ファッションとなっていた、と言ってしまってもいいかもしれない(もちろんサリンジャーの場合はそれは単なるファッションに留まらず、良くも悪くも彼を全的に包含していったわけだが)。それらの宗教性が意味するのは反物質主義であり、反プラグマティズムであり、圧倒的繁栄を無反省に享受するアメリカ社会への静かなる「ノー」であった。冷たく硬直したアカデミズムや、想像力を欠いた画一的メディアに対する「ノー」でもあった。また同時にそれは、第二次大戦に兵士として従軍し、数々の激戦の中をくぐり抜けてきたサリンジャーが背負うことになった深いトラウマの、切実な癒やしの手段であり、ヒューマニティー回復への大事な道筋でもあった。そして──これはかなり重要なことだが──そのような宗教性は当時まだ、今日見られるような不幸な「カルトの傷痕」を負ってはいなかった。
 今日我々がこの『フラニーとズーイ』を読むとき、おそらく読者の大部分はそこにある宗教的言説を、実践的な導きの方法としてではなく、むしろひとつの歴史的引用として、一種の精神的メタファーとして処理しながら読み進むことになるのではないかと思う。そういう文脈で読んでいけば、読者は表面的な「宗教臭さ」に惑わされることなく、この物語の核心に比較的容易に、率直に迫ることができるのではないだろうか。

はからずもここで付け足したんだけどねせんじつ。

atashi9.hatenablog.com

利己と利他っていうの利他的であること悪用する人っているでしょう。

割とフラニーの最初の方に書いてあるけど、男子学生は独断的だとかって、思考が不確かな自信の無さの裏返しだと思うんだけど。

 

眠くなってきた。後で推敲する。