何で今これ読まないといけないのか。
品川猿みたいのはずっと出ているけれども、どの友人を元に書かれたものかはわかるし、別にあたしは心の闇とかまるで人格に問題があったみたいに書かれるのはちょっと。村上自身がそう思っていたというより出版社がクソな時期を通過しているし、広告屋はそういってるのが常識だっただろうけど。中学生の時の方が酷かったし。具合の悪さではネットの極悪さでもっと酷かったし。
元の名前盗まれたとかいう人物が立場と肖像をインチキ生物学やエイベックスの都合で逆に盗っていたので(しかも二人分)。
発表された時期は05年ごろで、チャンネルが10でも、暦で含むのは今年じゃ早いのに。
もっと前から積み重なった部分もあるので。一話目の「偶然の旅人」は、女のいない男たちに収録されている「シェエラザード」に出てくる人にも似ていたりする。
短編集は「カンガルー日和」や「回転木馬のデッドヒート」ぐらいが、背景を読むのに用いるならばすっきりしていてわかりやすいけれども、文芸春秋から出てるものなどちょっとそれは無理だろうというのも多々ある。
冒頭に遇有性の話、後は記憶をなくしてしまう人の話も多い。
つまり何の目的だか遇有性を高めることやどこかで画一的な傾向にならされる動きがあったのかそれもあっただろうし、そのこともあってここに書いたけど
これだけじゃなくて責任というより考えや目線が横並びでないことは子供ならやや負担なことはあって、どうしてこんなに周りに理解されないのにと思っていたら、名前なんか捨てればいいとか言ってくる人がいたのは確か覚えがある。そのわりにそれでもなじまなければ用無しと捨てるってこれ、1960年代のバカのやつなんだけど、よくそのまんまやったやついるなと、本当に心底呆れるわ。特に7、8-6で浮かれて調子こいたバカの成田はここまでやることは記憶しておかないとならない。
それとも別人の慣習や考え方が身に付いたとか。成長スピードが速い時起こるそれとも違うのだろう。
ネットが身近になるにつれ、ある人物の印象が、現実の交流を通さないまま誤解されていくことが逆にすごく増えたと思う。私自身のことではなく。私自身は印象や過去の行動も、何らかのマスメディアやコンテンツによって、なんでこんなにおかしく変わっちゃうんだろうみたいに思ったことはあったけれども、それよりもひどい印象操作で人物評がおかしくなることはネットによって本当にぐっと増えたと思う。昔から多少あったにしてもそういうので友人に会いたくなくなることはよくあった。なので、前にも書いたけどFBができたのでまた仲良くしてみてくださいと言われても働きかけるのは私の方じゃない。記憶がなくなって、注意力も散漫な状態とか人間は劣化しかしないんじゃないのかな?