糸井さんが新潮文庫のコピーを書くにあたっての意図みたいのを話していたものをどこかで以前読んだ。見つからないんだけど。
インテリだけが本を読むとか、そういうのじゃないようにしたいとかいう話だった。
たぶん語呂で「陰照り」とかになるように量子力学で出るものとは違う、足の引っ張り合いみたいな些細なことを持ち出すことが多かったんだと思う。
どこがだからノイズで、スパムだとかいうのが、理系の感覚がある程度もしかするとないとか、自然に覚えているようじゃないとおかしくなるところはある。
「木」の暦の人はそういうのが怪しいところがあったりする。
ごり押ししても脆いとか。
それでインテリ層のネット言論だけれども、サブカル寄りなので、表現の自由とかそういう話が多くて、同様にぶれやすい。
この朝日新聞の3月30日の記事は、わたしはアナログでスクラップしていたのだけれどもブクマするのを忘れたいた。(今したらブクマはついていなかった)
朝日の批判はするけど、こういう話はあんまり話題にならないのね。
それでこの話だけど、
相互理解のためにとりあえず最初は相手や他人を許容しないとだめでしょっていうのからだったんだけど、自分が批判されてるところが変だと思わないとかメタ認知が怪しいと信憑性がなくなりやすい。
それと、何か、どこの会社でやるとか何だとかで区分けがはっきりしているところがあって、というのもリーチだのコンバージョンだの、9に沿って何にも行き届いてなんかいないのにエンゲージメントだとかでのバインドが強くてその洗脳もすごいんだと思う。
結局相手の話を聞かない人が多からソーシャルどころかコミュニケーションの時点で躓くよね。
左右両方でやってて、
博報堂とかの方は付け込むのがうまいからまあまあうまくいっても動いているようでおんなじところぐるぐるすることが多い。
電通は話聞かないので失敗するのはわかってたけど言わなかった。強そうに見える人に何か言うのもなんだなとも思ったのもある。いまだにわかってない節も人によってはかなりあるけど、いい加減にしないとぐちゃぐちゃなのがまた出てきているので。
今日の分のネットのおやつの前置きなんだよねこれ。
やっぱり日にちと数字合わせたほうがよさそうなんだよなあ。