atashi9's weblog

10だってあるよ

村上の新刊

  

女のいない男たち

女のいない男たち

 

 

あらかた文芸春秋で読んでいて、monkeyのは読んでいなくて知らなかった。書店で見かけた気もしたけど。大抵友人や周りの知人を思い浮かべるようなものが多い。文芸春秋のは1999年前後あたりに思うんだけど、「シェエラザード」は何故か1981または2001年頃の話が強い。1981年のほうが強い。ヤツメウナギが出てくるが、

武蔵野うどん - Wikipedia

SECRET OF NYORONYORO

思い出したのはこのふたつだ。あるステレオタイプが少しでもないと、人は、人と接触するときにやや戸惑うというのがあるらしい。わたしはそういうのを嫌に思うところがあったので、印象をわざと決めさせないふうにふるまうこともあった。それがかまってちゃんぽかったといえばそう見えてもしかたないのだけれども、世の中の人間は見栄をむしろ張りたい人のほうが多いからっていうのもある。物理的に物事を考える場合の優位さももちろんわかっていたのもある。当然言われている。何が違うのかというとかんがえないといけないなあ。

 

「女のいない男たち」のほうもそうだが、こんなふうに主人公は真剣であってもバカみたいな話をよくかけたなあと感心もしたし、ツイッターで言ってる

こともいけないなあと少しは思った。14さいというのは1984のことかなあ。

 

この時期(1981年頃)書かれている短編集のは、これであったと思う。(これにまつわる話はまた明日) 

 

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

 

 この前の短編集のこちらも共通してそうだが、

 

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

 

 ドラッカードラッカー名著集12 傍観者の時代 (ドラッカー名著集 12)が1979年なのでそういう客観的に見るという目論見もあるはずだ。恵まれている。非常に恵まれている。有り難い話だ。それでもいわば野卑な中でどうなるか、というのがある。1999年頃だとまあ書かれている人たちなんだろが、私と差異はないと思われていたようで足りていないのを女性の人間関係や女性社会でどうふるまうかなどもあったように思う。1981年だと子供の純粋な目というより当時は老成もしていたし、大人が思うより物事はわかっていたと思う。考え事しているのとぼんやりしているのとこどものその様子はわりとわからない。というかどこかでわからないようにしていた。女性は野性的な人が多かったと思う。野性的な割に対面の表層的なプライドが高い人が多かった。噂話の発生が強かったにしても。知性は低い。振り返れば時折くだらなくてバカみたいだったなと感じる。ことのあるべき場所、(ある時はこれは私が大人になってこういうことがあったなら許せないと思うだろうと、ある時他人にそう言えともいわれたこともある。実際に言ったらそりゃ大人のほうは不快感は強い。)ではなさすぎると思うか思わないかは知性の問題もある。私の立場は常に勿論子供同士というのは少ないので下である。それより同じぐらいのところでできなかったのは、広告屋の行儀の悪さなので。

 

主題は男女の現実的な別れの問題。人間同士の消費とか。人生の謳歌のようで時代との関係もあり、消費で、知性,思慮深さが少ない場合には空虚に感じた。若さだという世代もあるが、実際の若い子がこう感じたからこそ今がある。悪い意味で。

 

吾輩は猫である?この間電子書籍に入れたよ。明日から朝日新聞ではこころ載せるみたいだけど。